波佐見焼のスタンダード。

普段何気に使っているご飯茶碗ですが、この九州・長崎県の波佐見焼の白山陶器が作っている森 正洋がデザインした茶碗は少し違います他とは。華があるのです、他のどんなクラッシック柄の茶碗をしても、この華やぎは出ません。それは「思想のモダン」さが成し得ることなのだろうと僕は理解しています。まずは何よりも柄がモダンです。世界を見渡してもセラミックとしての磁器にこれほどのデザインを施した人はなかなかいません。これは今も碗のベースは型で作って、絵柄は人が一個一個を手書きしています。中も外もです。そこにこのお茶碗の尊い姿があります。プロダクトとしての使命と、作品としての芸術性の接点です。これを一個一個ロクロで回して、しかも中も外も手で絵付けして、薪の窯で焼成したら、3千円にはならないし100種類も出来ない。いつも入荷待ちの作品になります。森正洋さんがおっしゃっておられた、工場と創作の高い接点で人の幸せに向き合うの意味はそこにある、作品をプロダクトとして輩出させることで、産地、そこで働く人たちの仕事や潤いになって、しかもその創作はその地の沢山の若い人たちに影響を与え続ける。プロダクトアウトする時に必ず突き当たる生産性の壁、アートと生産の間の川の隔たりは今も昔も永遠に続く、作品なのか製品なのか、それを森さんは世界の状況をつぶさに見ながら、当時の物質的にさほどまだ豊かでなかった日本で高い次元を具現化する一つの答えを見出したのでした。言わば両方の優れた部分を引き出してさらにレベルの高い次元の色んな幸せに近づける、今で言うハイブリッド。どうもそれはバウハウスの考えにも繋がると僕は思っていました。工芸と大量生産の間にある芸術性。どちらも正しいと僕は思います、一人の作り手が自分の手でしか作り得ない物の尊さは崇高で、それぞ作品であります。一方でこの森作品の持つスタンダードな規範性は、これまた尊いものなのであります。

二十年前に買ったお茶碗、今も使い続けています。なかなかワレない。高い温度で焼成された磁器は薄いながらも強く、絵柄も落ちることもなく食器棚の中でもはっきりとした作品性を発していて、いつ食べるのに使っても背を正す、凛々しさがこのお茶碗には漂っています、それは使い出すことで初めて感じると思います。じっくりと好きになると言いますか。
このようなお茶漬けにはもちろんのこと最適、小どんぶりとしてのあり方も、口が広がっているから乗せやすいのです。二十年も使い続けることができる製品こそがスタンダードと呼べるに値するのです。

今から十五年ほど前、森先生のアトリエに何度かお邪魔して色んな話をお聞きしました頃がありました。その膨大な話に感動しまくっていた当時の僕。その感動がきっかけになり、それからしばらくかかってセラミックスタンダードの本を生むことになるのですが、当時先生のお宅には白のホンダ・シビックが車庫にあって、当時の最新のものですでに今のフィットの原型みたいな形でした。ワンダーシビックではなくてそこがいいなと思いました。古いシビックではなくて最新のシビックを選んでおられた。その話も先生に振ってみたら先生は「ホンダは良いよね」ただそれだけおっしゃったのを覚えています。それはホンダのチャレンジ精神だったのか、はたまた、バウハウス的フォルクス・ワーゲン(ビートル)(訳すると人民車)とホンダ・シビック(市民)という時代が流れても同じような考え、そこには大衆性がありながらも作品性のあるクルマ二種だったのか。あとから見て時代が変わったプロダクトとしての車2種であるのは間違いない、その当時にすでにホンダには環境という言葉が備わっていたのだから。それは、そこから遡ること何十年も前にホンダシビックはCVCCエンジンなどをひっさげ革命的に現れていたからなのでした。森作品の大衆へ向けた芸術性の、普及させる芸術の到達点として捉えていたようにも感じ、大衆と共にある芸術的な生産、それは作り方と中身が大事と、この中身にしてこの優れたデザインやその「買える価格」、そして社会には大きな雇用の機会を与える、当時フッと思ったのでありました。それらの思考が僕が探していた服作りに対する思想の源に繋がっていったのは間違いありません。スペックだけじゃなくて、つまり価格や品質だけじゃない、芸術性、色気という言葉に置き換えても良いです、ビートルの曲線や、お茶碗のとても美しくシンプルな色の多様性が色気、それです。自分の中のその芸術性と大衆性を求めるという思想の原点を確信して行ったのでした。(人民と市民には大きな隔たりがある、主権がどちらにあるかであって、人民とは国家にあり、市民は明らかに人、国民・個人にある。そういうところに時代の隔たりはあるのだが、デザインとしての思想としては共通しているものがあるというのが僕の考えです。)

上記のように「森デザインが社会に与えた功績」はとてつもなく大きいのですが、僕はそれが単にセラミック・スタンダードという製品群そのもののことだけではなくて、本当の功績や素晴らしさは、その「思想」そのものにあると思っていました。色々なものに置き換えることができうる、その当時はそれがまだ正しく理解されていない、ならば当時色んな方法でペーパー関連や出版デザインに優れた物を世に問うていたプチグラパブリッシングにお願いしてみようと思ったのでした。

お茶碗を変えよう。
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