プリッカー賞

プリツカー賞 (The Pritzker Architecture Prize) は、アメリカのホテルチェーン「ハイアットホテルアンドリゾーツ」のオーナーであるプリッカー一族が運営するハイアット財団 (The Hyatt Foundation) から建築家に対して授与される賞である。槇文彦さん(青山のスパイラル(京都のワコール)ビルや新横浜市役所の設計にも関与した。も日本人として二人目の受賞者だった。隈研吾さんはまだであるが、やがて必ず獲るだろう、候補に上がり続けているだろう、存命中で若いということもありまだ先送りされている?感もあるが、そういう意味でもノーベルっぽい、あの人が文学賞をまた獲っていないから、、、)

王立英国建築協会が授与するRIBAゴールドメダルやアメリカ建築家協会が授与するAIAゴールドメダルに比べて歴史は浅いが、1988年に『ニューヨークタイムズ』の記事で「建築家にとってこの賞は、科学者や作家たちにとってのノーベル賞のようなものだ」と書かれて以降、「建築界のノーベル賞」と紹介されることもある]

賞の名称は正式には「プリツカー建築賞」となるが、単に「プリツカー賞」(Pritzker Prize)と呼ばれることが多い。他にプリツカーの名を冠する賞として、プリッカー文学賞がある。

1979年にアメリカ人実業家でハイアットの事実上の創業者であるジェイ・プリッカーと妻のシンディによって設立された。「建築を通じて人類や環境に一貫した意義深い貢献をしてきた」存命の建築家を対象とする。国籍・人種・思想・信条を問わず、原則として1年に1人表彰している。副賞として10万ドルとブロンズのメダルが授与される。メダルの意匠はルイス・サリヴァンの作品を模したもので、ウイトルウィウスの言葉が刻まれている(1986以前はヘンリームーアによる彫像であった)。受賞者を国籍別でみると、日本人9人、アメリカ8人(1人は二重国籍)、イギリス人4人、フランス3人と、日本人の受賞が最多となっている。(ウィキより)

私には山本理顕と言えばこれだった、2008年の建築、ナミックス・テクノコアという新潟の先端技術企業のR&Dの施設、これには驚いた、それ以前に横須賀美術館というのが彼の作品としてあるが、これは美しいとは思ったが特に驚きはなかったが、1980年頃から突然建築に目覚め、そればかり見てきた自分には、このナミックス・テクノコアは驚愕的で、これが生まれてきた、背景が知りたかった、なぜこれが新潟にできたのかということをだ。理顕の作品には横浜が多い。育った街だからだ。育つというのは子供の頃だけではない、学校出て、大人になってからの育つを意味していると私は思う。

当然プリッカーはこれをもみているわけだ、横須賀美術館だけでは対象選考にはならないから

さて、それで今回の本題である。

「美の巨人たち」である、よくやってくれた、30分であれだけよくまとめた、わかりやすく、最近では傑出している内容であった。驚きや発見、相槌が多かったな。

給食を街のボランティアたちが配膳しているというシーン、事実に驚いた。なんという街なのだ「子安」って。ニューヨークのセントラルパークの管理を思い出した、あの美しさはボランティアなのだ。

なるほど、なら、この学校が生まれるわけだよねと合点がいった。なぜなら、最終誰が、このプロジェクトのハンコ押したのかって、どんなことでも自分は思ってしまうわけで、このプロジェクトのハンコを押した、ゴーさせた意味っていうのはとても大きいと思った、日本を代表していると、まだ日本はリベラルな先進国であったと。安堵の気持ちが見終わった自分に沸々として、心地の良い、これを描く今もだ。

烏合の衆の集まりから始まったこの小学校であるがゆえの難しさの必然性の中から生まれた、建築設計だけでない、日本の未来を示唆するデザインと子供たちの成長過程に与える影響を大人がみんなで本気で考えた地元のプロジェクトとして、賞賛される。横浜市の懐の深さ、新市役所といい子安小学校という二つのプリッカー受賞者の思想が体現されている場所があるのだから。

そして建築について語る山本理顕さんの言葉の一つ一つがとても心を打った。

でまた、訓市のナレーションのヘーベルのCMがこれまた心に残りよる。少し前まではダイワハウスが良かったが今はヘーベルが、、、心に残る、自分であった。