
8月 31, 2020
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チームというと、構成メンバーをパーツになぞらえた「ひとつのマシン」を想定しがちですが、それは間違いで、創造する組織で大事なのは、それぞれが自らの判断で即座に動けること。リーダーは、チームのコアメンバーがこれを試してみようと思いついた時に、面倒な手続きや承認がなくても実行に移せるだけの自由と権利を保証するべきなのです。
生きた情報は生身の人間の中にしかありません。そしてどんな分野にも経験豊富な実力者がいます。プロジェクトに必要な知恵を授けてくれる「師」を探す旅にでよう。人の心を動かすのもまた、生身の人間から出る言葉なのです。
デヴィッド・ボウイが京都に心酔していた時期があり、事あるごとに京都に来て、また住むように暮らしていたということは以前からも知っていて深く追いかけ調べた時期もありました。そんな番組が先日ありました。番組では紹介されませんでしたが彼には「師」の存在がありそこから京都へ繋がって行ったようです。師は京都に住んでいた人ですが、日本人ではありません。もちろんデヴィッド自身も深く京都に入り込むことになったわけですが。きっかけは「師」に導かれています。それにより救われたその時代のデヴィッド・ボウイというようにも見えました。この「ボウイ京都の時代」の後に、番組では紹介ありませんが、あの「チャイナ・ガール」「レッツ・ダンス」の熱狂があったのです。70年代の「モス・ガーデン」から始まってね。その熱狂は京都時代とセットなのだと僕は思っています。1990年代に彼は結婚し、新婚旅行に1週間ほどまた京都に来ていて、その時も同じ常宿の俵屋旅館に滞在していたという。とにかく4Kで作られている番組なので、とても美しく、圧倒された京都の魅力がある。番組が始まってすぐにピーター・バラカンに似た声の朗読があり、えッ、バラカンさん?たったこれだけのでもとても重要な部分にバラカンさんを使うかな、、、やはりバラカンさんでして、番組の意図としての構成にとても合っていて、これまた素晴らしい。とてもふさわしかったし、デヴィッド・ボウイの全てを知る、近い世代の、しかもイギリスの音楽関係者でしかも、日本に傾倒した歴史を持つ二人ということを考えるとこれほどの朗読にハマる人も無かったろうて。今のところさらにの再放送の予定はない。NHK BS4K
モノ作りする人は有形・無形を問わずに、京都に学ぶ必要がある、自身のどの時代か・時期において。そこへ導いてくれる師があるのなら聴くべきだその入り方をその人に。それによって自分は抜ける、さらに行ける、デヴィッドを見ればわかるでしょ、ここでの学びはそこだ。
NHKBSで帝国ホテルの三ツ星シェフ・ティエリー・ヴォワザンさんが出た番組で「日本のコメ」と奮闘する過程を紹介している企画がありました。これがなかなかに優れていましてとても面白かった、映像美も芸術の領域です。クリエイティブを生む人はこのように発想し、形作っていくのかということや、最高峰まで上りつめる人は、すでにある自分の立場を省みることもなく、モノ造りの現場に飛び込んでいき、この場合日本酒だったのだが、そこで得るモノの大きさを経験上知るのだ、を知った。やはり年齢じゃないんだ、いつどこからでも学びに飛び込める。それがフランスの人だから余計に面白くすごい。こういう人材を抱えている”帝国ホテル”だからこそまた面白いし、また帝国ホテルそのものの魅力に繋がる。学びは自ら声がけし行動する必要がある。
野村先生レセピより。ミートローフのサンド作りました。中身の見てくれが先生ほどうまくできなくて、当たり前ですけど、それでも味は抜群に美味いです。抜群に食べたことないな。鶏と豚挽き肉ってのが秀逸。うまみ〜って。食パンは銀座木村屋、メゾン・カイザーの本家ね。高島屋でもメゾンの方がブースがデカかった、時代だねー。でも食パン美味しくて、これ六枚だったのですが八枚のちょっと薄い方が朝の食感に適しているのかもです。次回にリベンジ、でも本当味は美味い。旨いっていうよりもね。
野村紘子先生のレセピで作る⑧
企画者でデザイナー、オーナーであるYUJIくんとは30年ほど前になるのですかね、芦屋で出会った。その頃は感覚が尖っていましてね、合う度に長く色んなこと話しましたけど、ほんと研ぎ澄まされていて、こだわり切るところは容赦なかったな。覚えてるかなYUJIくん。このうちの店でお取り扱いをさせていただく時も、僕が偶然、他のお店で見つけていて、もう何年も見ていたのですよ、いいなって、でもずっとシーズンを追いかけて見続けていて、あるときにやはりいいなぁ、これはやはりうちが取り扱うに相応しいバッグだ、連絡してみるか、、、ということになり、連絡とって見たらYUJIくんだったわけで、知らなかったのですよ、お互いもう何年もすれ違ってしまい。そしたらそのメールでわかったのです、えええ、マジで、、、ということになり、そしたらわかるわー、このカバンの良さが、できるだろうって、その昔の当時から服もカバンもやっていて、こだわりすぎていたものねって、さらに経験積んで出てきているものは、誰が作っているのかも知らないのに、僕を魅了・感動させていたのです、何も知らないままにです、素晴らしいねって。それが声をかけさせていただき、お取引をお願いしたいきさつですね。今はとても喜んでいます、僕は。また一緒に本当にセンス良い人と仕事ができていることがですね。詳細に詰まっているのですよ、30年以上のこの業界での経験からしても、品質、デザイン、時代性、そして価格、健康な嗜好などがね。バランスの五適に値する。日本で作るバッグで、非凡な才能が見て取れるマリンデイ。やはりお洒落な神戸らしくて、それは豊な横浜で知っていただくべきものであるとね思っているわけです。
セラミックスタンダード・デザインモリコネクション展 MWL STOREにて開催中です。是非。
森先生、小田先生の意思をつないで良質でスタンダードな暮らしを日常に取り入れてみる。なぜこのデザインを創り、なぜこのデザインを世に推したのかを使うことで感じてみる、美味しい暮らしのそばには優れた創作があります。日常使いに強くて美しく、自分の好きなスタイルを選べる「お茶碗」。波佐見を世界へ導いたのはこれらの創作からです。
ウオルトさんはプレゼンに長けた方でした。これはアナハイムのディズニーの開業10周年を迎えてこれからのディズニーワールドのプレゼンをしているわけです。ここからは想像ですが、スティーヴ・ジョブズ(アップルコンピューターのファウンダー)パロアルトの少年だったスティーヴは幼い頃にこのようなプレゼンを見て、脳裏に刷り込まれているはずなのです、彼の数々のタイミングにおける優れたプレゼンはこのウオルトさんのいろんな場面のプレゼンにとても良く似ている。影響を受けている。その幼い頃に脳に刷り込まれている原体験がピクサーという会社を生むことになったと僕は思って信じて疑わない。そしてその後のディズニーとの関係を思うと、間違いないなと思うわけです。日本でも私の小さな頃にディズニーランドという1時間番組をやっていたのです、プロレスと隔週の交互だったように、それも金曜日夜8時(我ながらよく覚えていますね、それぐらいに鮮烈に記憶に留まった)プロレスだから日本テレビ、宝塚では読売テレビと言ってました。そのディズニーランドという番組はディズニーアニメと動物のシリーズ、ナショナルジオグラフィックという雑誌がありますよね、あれの映像版見たいなのをすでにその当時やっていました。それがとても楽しみで、プロレスよりもディズニーランドがとても楽しみだったのを覚えています。そのテレビ番組としてのディズニーランドの始まりはやはり、シンデレラ城の上に上がる花火とピーターパンの妖精でスタートでした。このメアリー・ブレアさんのディレクション・ドローイングによるイッツ・ア・スモールワールドはアナハイムのディズニーランドで1966年5月28日に始まりました。東京(千葉・舞浜)にTD Lができるまでにまだ18年ほどあったわけですね。話は飛びます、その私がまだ小さな頃、宝塚には宝塚ファミリーランドという施設がありまして、イッツア・スモール・ワールドから影響を受けたアトラクションがあり、家がすぐ近くだったので、それによく乗りに行ったのを覚えています、もちろんそれはさらにスモールだったわけですが、その当時は京阪神急行電鉄、つまり今の阪急の経営だった。動物園、植物園、大プールがありました。そう、東宝の撮影所も、宝塚映画と言ってました、ゴジラシリーズとか若大将シリーズという加山雄三さんの映画を撮っていたようです、まだ小さい頃だったから親づてに聞いていた話の記憶ですがね。これらの体験はとても自分の形成に影響しています。今はその施設は全て無くなっていて、宝塚音楽学校などの歌劇の施設になっているようです。さらに想い出ですが、宝塚小学校では定期的に映画の観賞会というのがその頃ありまして、大劇場(宝塚大劇場、歌劇の舞台)で映画をみていたのです、生徒が全員で行く、それはウオルトの映画、眠れる森の美女、シンデレラ、、、、だったミッキーもあったのかも知れませんがどちらかと言うと、もっと物語もの、動物映画もあったかも知れませんが、眠れる森の美女の怖いシーンやシンデレラの悲しいシーンが怖くて見れなかったのを子供心に覚えていますね。今じゃ大劇場はそんな使い方はしないでしょうが。でもよくそんなことができたなぁって今じゃ思いますね、版権の問題とか大劇場を使うとか、日本が駆け上り始めた時代の象徴だったのかもですね。だから今でもメアリー・ブレアの絵には特別な感情があるのです。そしてイッツア・スモール・ワールドの歌にも。