今もそうなのかな、梅田を同じ時間に出る、特急や急行があって、この線は京都線の四条河原町行き、真ん中が宝塚線の宝塚行き、そして一番右が神戸線の神戸三宮行きとなる、宝塚には昔(今もかな)特急がなくて、急行のみだった。昔は15分おきにこれが見れた。梅田から中津、十三という駅までが三線が共有して使い、乗り換えの拠点となる。このような線は私鉄でも阪急だけだろう。伝統のマルーンカラー、内装のシートも上質なグリーンの毛足のあるフアブリックを使っていて、昔は宣伝の中吊りとかドア横の広告ウィンドウやましてはドア上の長いのもなかった、美意識の強い、阪急東宝グループは車内のデザインや広告も徹底して管理していて、今は違うだろうが、昔は阪急の関連会社の広告しか出せなかった。宝塚歌劇と東宝の映画、ゴジラか若大将シリーズの映画広告だけだった。小林一三という慶應から三井銀行に入行し、その後阪急の私鉄経営の近代化と少女歌劇経営に乗り出したファウンダーだった。東急の五島も西武の堤もその後のことになる。今は阪神電鉄(タイガースの親会社)も傘下に収めて、球団経営で最高の収益を誇るグループとなった。阪急東宝グループにすれば歌劇も野球も文化であると捉えている、もちろん映画も。人の人生には文化が必要なのだと阪急に教えていただいたようなものだ。僕らは大学の4年間の夏休みと冬休みにはお中元やお歳暮の配達、つまり阪急百貨店の宝塚配達所のアルバイトに行っていた、そこで得たバイト料で4年の時にアメリカに行った。なぁ重夫、懐かしいなぁ、宝塚は阪急の聖地で関連企業の偉い人で住んでいる人が多くて、お中元やお歳暮のやり取りが当時、とても多くて、すごかった、今を思えば。それで僕らのバイトは助かっていたということさ。