現代最高のクリエイティブ・ディレクターとしてディオールの現場のトップに立つジョナサン、これからいい仕事をするだろうね。ロエベの飛躍を見ているとね。彼はいつもこういう普通の格好している、でも出てくるものは凄すぎるんだ。Diorが一番好きだな昔からね。いい服を着よう、秋です。

現代最高のクリエイティブ・ディレクターとしてディオールの現場のトップに立つジョナサン、これからいい仕事をするだろうね。ロエベの飛躍を見ているとね。彼はいつもこういう普通の格好している、でも出てくるものは凄すぎるんだ。Diorが一番好きだな昔からね。いい服を着よう、秋です。
今年初めての鳥取の二十世紀をいただく、三浦の🍉西瓜と、鳥取の二十世紀が一番好き。これから2週間が短い旬の鳥取、少し青さが残るのが、中も青くて、みずみずしくて、甘さも若く、美味しい。
ポワロはもちろんドラマとしての内容は珠玉なものがあります。それに加えていいのは、というか、かなり優れているのはまずファッション(男女とを問わずに、この時代のものつまり100年もの時代の経過、あるいはドラマの制作年からも何十年も経っているにもかかわらず、かなりファッションしています。)こんなドラマはまず日本に見ないし、他の例、コロンボやシャーロックホームズなどの名作においてもそれを見ないのであります。
さらには、内装のセットの素晴らしさである。かなりの予算が注ぎ込まれいる、そして建築、時代考証をちゃんとされた建築や、その内装の美しさはかなり魅力的で、どうしてもこれを見ていると、東京都庭園美術館に思いが行ってしまうのです。あの美しい日本一のアール・デコにです・
そうそう、そして忘れてならないのは、元町からすぐのホテル・ニュー・グランド横濱、これも同年代の建築つまり、あの素晴らしい、内装はアール・デコの様式なのです。だから好きで、いつもカフェの洋食に入り浸るわけです。私がアール・デコにこだわるのはこの辺りの事情が多分にあるのです。
ポワロのアール・デコは誰に教えてもらったわけでもなくて、何度も何度もポワロのシリーズを見ていて、インテリアデザインのスペシャリストの私としては、どうしてもインテリアの細々としたもの、あるいはデザイン、内装装飾とか階段の螺旋とか、ドア、入り口に目が行ってしまっていて、このアール・デコってすごいなって思い始めて調べだすと、出てくるわ出てくるわであったわけで、それでまた見直すと、ドラマの筋書きと共に内装装飾の美しさにニヤついてしまっているわけです。アガサ・クリスティ!ってね。
名探偵ポワロシリーズは、1920年代から1930年代のアール・デコ黄金時代を背景としており、この時代の美術様式がドラマ全体の世界観を決定づけています。デビッド・スーシェ主演のITVドラマシリーズ(1989-2013年)では、制作陣が意識的に1930年代中期のスタイルを採用し、ポワロの世界を視覚的に表現しました。
ドラマでポワロが住む「ホワイトヘイブン・マンション」は、実際にはロンドンのチャーターハウス・スクエアにあるフローリンコートという建物です。
ドラマのセットデザイナーは、ポワロの几帳面で洗練された性格を反映した内装を創り上げました。
制作チームは、イギリス各地の優れた戦間期建築を撮影に使用しました:
ドラマの背景となった1930年代のイギリスは、住宅建設ブームの時代でした:
興味深いことに、アガサ・クリスティ自身もアール・デコ環境で生活していました。第二次大戦中、ホーランド・パークの自宅が爆撃を受けた後、イソコン・ビルディング(ベルサイズ・パークのモダニズム建築)に住居を移しました。この建物にはバウハウスの建築家ヴァルター・グロピウス、マルセル・ブロイヤー、ラースロー・モホリ=ナギも居住していました。
名探偵ポワロシリーズは、単なる推理ドラマを超えて、1930年代アール・デコ時代の視覚的記録として高い価値を持っています。ポワロの几帳面で洗練された性格は、アール・デコの精密性と豪華さを完璧に体現しており、建築とキャラクターが見事に調和した稀有な作品となっているのです。
参考にした文献 Apollo Magazine。
台風の影響により本日は15時30分にて閉店いたします。
赤澤さん(東大からアイビー・コーネルのハイエンド、英語ネイティブ)はほんとうによくやっておられる。論点もわかりやすく、執拗な交渉により、細部で意味のある結論に達しているサムライ。彼以外だとここまで日本にとって利のあるディールにはならず、打たれっぱなしだったろう。さあ、後は80兆円がいかに国内企業にも、戻り利益になる仕組みになるかのディールだ。政権が変わろうとも彼だけは留任だ。-MWLSTORE Business Story-
今日はこれかけてます。小西さんのセンスってほんとすごいな、変わる人がいないな、渋谷系
3時間も待っていたのよ
私ネコと一緒に
この写真はロンドンでの私の写真、ブラックウォッチのセットアップね。
私は湖水地方には1度、プーの100エーカーの森にも2度訪れている。それらをつぶさに見てきて思うのはイギリスにおける物語と環境保全と文化遺産の関係だろう。それらの、今回は湖水地方を報告書として解説していきたい。人生の晩年のまだ若いうちつまり60代終わりぐらいまでに、会社を卒業してからの旅の一つ目にお勧めしたい場所であります。ピーターもプーの物語もまずそこから入っています。それでとても好きになって、とにかく環境保全の規模が違う。なぜピーターにこだわり続けるか?です。
世界中で世代を超えて愛され続ける『ピーターラビット』の物語は、単なる子供向けの絵本にとどまらない。その創造の根源には、作者ビアトリクス・ポターの個人的な人生の軌跡と、英国北西部に広がる湖水地方の壮大な自然との、深く揺るぎない絆が存在する。この報告書では、ポターの人生がどのようにして湖水地方の文化的景観と結びつき、最終的に世界的な文学遺産および自然保護の象徴となったのかを、多角的な視点から詳細に分析する。ポターの創作活動の原点から、後半生を捧げた農場経営、そして自然を守るという壮大な遺産に至るまで、その物語が現代にまで継承される背景を探る。
ビアトリクス・ポターは1866年、産業革命で財を成した裕福な中産階級の家庭に生まれた 。当時の上流階級の慣習に従い、彼女は学校には行かず、家庭教師による教育を自宅で受けた 。弟が6歳で生まれるまで、彼女は他の子供と接する機会もほとんどなく、その内面は孤独に満ちていた 。
しかし、この閉鎖的な環境は、皮肉にも彼女の並外れた創造性と、自然界に対する鋭い観察眼を育む土壌となった。彼女は自宅の庭の植物や昆虫、そしてペットとして飼っていたウサギ、カエル、イモリ、ヘビなど様々な動物たちを飽くことなくスケッチし、その画才を着実に伸ばした 。彼女は後に、もし学校に通っていたら、教育によって独創性が薄れていただろうと語っている 。この事実は、彼女の恵まれた境遇がもたらした孤立が、彼女の芸術的感性を形成する上で不可欠な要素であったことを示唆している。彼女にとって、ロンドンは「束縛の象徴」であり、夏の休暇で訪れる田舎こそが「人格的独立の象徴」であったという分析は、彼女の創作の核心に深く根差した精神的な対立を浮き彫りにするものである 。
ポター家は毎年、3ヶ月に及ぶ長い夏季休暇を風光明媚な場所で過ごすことを常としていた 。幼い頃からスコットランドの田舎で自然への愛を育んだポターは、16歳になった1882年の夏に初めて湖水地方を訪れる 。
彼らが滞在したのは、ウィンダミア湖のほとりに建つゴシック様式の館、レイ・キャッスルであった 。この地で彼女は、のちにナショナル・トラストの創設メンバーとなるハードウィック・ローンズリーらと出会い、彼らが構想していた地元の自然保護運動に深く共感した 。この16歳の夏の経験は、単なる休暇の思い出に留まらなかった。それは、彼女が創作活動を通じて得た成功の果実を、その創作の源泉である自然の保護に捧げるという、彼女の生涯の方向性を決定づける重要な転換点となったのである。物語の誕生は、同時にその舞台となる地の未来を救うという、彼女の個人的な使命の始まりでもあった。
ポターが友人の子供に宛てた手紙から生まれた『ピーターラビットのおはなし』は、1902年に出版されるやいなや世界的な大成功を収めた 。ポターは、このベストセラー絵本の印税収入を元に、1905年、かねてより心を奪われていた湖水地方のニア・ソーリー村に「ヒルトップ・ファーム」という農場を購入した 。
彼女のヒルトップへの移住は、個人的な自由と独立への強い渇望だけでなく、当時の社会的潮流とも深く結びついている 。急速な工業化と人口増加で環境が悪化した大都市ロンドンを離れ、田園地帯に理想郷や別荘を求める富裕層の動きが活発化していた時代に、ポターはまさにその思想を体現したのである 。彼女のこの選択は、個人的な幸福の追求と、より大きな「田園志向」という文化的運動の交差点に位置づけられる。
『ポター三十六歳の頃の成功であり、パリではアール・ヌーヴォーからアール・デコだった時代を生きている、白洲次郎も同時代に生まれ、重要な時期をイギリスのカントリーサイドで過ごしていて、武相荘の根源となっていると言える。正子でなくて次郎であるのだその武相荘の根源は。』プリンシプルである。
ヒルトップと、そこから徒歩5分ほどの場所にあるカースル・コテージ 、そしてその周辺のニア・ソーリー村は、ポターの作品の主要なインスピレーション源となった。彼女は自身の家や庭、村の風景を熱心にスケッチし、それを物語の背景として忠実に描き込んだ 。
物語と関連する具体的な場所は以下の通りである。
ヒルトップ・ハウス内部: 『ひげのサムエルのおはなし』でサムエルが通り抜ける階段の踊り場 や、『2ひきのわるいねずみのおはなし』に登場するドールハウスの小物 は、ポターが暮らした当時のまま現存している。
ヒルトップ農場の庭: 『こねこのトムのおはなし』に出てくる白い門 や、映画『ピーターラビット』でマクレガーさんの畑として使用された場所 は、ヒルトップの敷地内にある。
村の風景: 『あひるのジマイマのおはなし』に登場するパブ「タワーバンク・アームズ」は今も営業しており 、村の赤いポストは『ピーターラビットのおはなし』に登場する風景そのものである 。
このように、彼女の作品に描かれた世界は、湖水地方の実際の風景と見事に重なり合っている。
絵本作家として成功を収めた後、ポターは創作活動と並行して熱心な環境保護活動家となった 。彼女は『ピーターラビット』の印税を使い、周辺の農場や土地を少しずつ買い取り、開発から守る活動に専念した 。これは、彼女の文学的な成功が、その物語を生み出した「源泉」である自然を守るための手段となった、文学史において稀な例である 。
ポターの保護活動は、単に風景を守るだけに留まらなかった。彼女は自らの農場で、湖水地方の風景に欠かせない在来種のヒツジである、ハードウィック・シープの飼育に尽力した 。この羊は絶滅の危機に瀕していたが、彼女はハードウィック・シープの放牧が牧草地の景観を維持するために不可欠な要素であると考えた 。
彼女は、自然と人間の営みが一体となって初めて美しい景観が維持されることを直感的に理解していた。これは、生物多様性の保護と文化的伝統の継承が不可分であるという、現代に通じる卓越した環境保護思想家としての彼女の側面を示している。
ポターは、自身の死後も湖水地方の自然が守られることを強く願っていた。彼女は1943年に亡くなる際、遺言によりヒルトップを含む15の農場と4,000エーカー(約1,600ヘクタール)以上の広大な土地をナショナル・トラストに遺贈した 。この膨大な遺産により、現在、湖水地方の約4分の1がナショナル・トラストの管理下に置かれ、開発から守られている 。
2017年、湖水地方は世界遺産に登録された 。その登録理由は、氷河期に形成された「手つかずの自然」と、ワーズワースやポターら芸術家の創作活動によって育まれた「人々の営みが織りなす文化的景観」が評価されたことにある 。ポターの生涯にわたる努力は、この地の景観を保護し、その文化的・歴史的価値を現代にまで繋げる上で決定的な役割を果たしたのである。彼女がいなければ、私たちが絵本で見た風景は失われていた可能性が高く、世界遺産への登録も実現しなかったかもしれない。
ポターの遺言に基づき、ヒルトップ・ハウスは彼女が暮らした「そのままの姿」で保存されており、世界中から訪れる『ピーターラビット』ファンの真の聖地となっている 。ヒルトップの運営は、観光客に「本物」の体験を提供しつつ、遺産の保全を最優先するというナショナル・トラストの使命を象徴している。
ハイシーズンには1日に500人以上が訪れるため、入場は時間制となっており、事前にチケットを予約することが強く推奨されている 。また、建物や調度品の大規模な保存作業のため、冬期は閉館する 。これらの措置は、この場所が単なる商業施設ではなく、未来の世代に引き継ぐべき貴重な文化遺産として、繊細なバランスの上で維持されていることを示している。
ポターの愛した湖水地方には、ヒルトップ以外にも物語の世界に浸れる場所が数多く存在する。
ウィンダミア (Windermere): ロンドンからのアクセスが良好な湖水地方観光の玄関口であり、最大の湖であるウィンダミア湖を擁する。鉄道とバスの拠点であり、ホテルやB&Bが集まる 。
ボウネス (Bowness): ウィンダミア湖畔の中心的な港町で、遊覧船クルーズの発着地でもある。お土産物屋やカフェが充実しており 、『ピーターラビット』の世界を体感できる没入型博物館「ザ・ワールド・オブ・ビアトリクス・ポター」がある 。
ザ・ワールド・オブ・ビアトリクス・ポター博物館 (The World of Beatrix Potter): 絵本の世界観を再現したジオラマやオブジェが展示されており、子供から大人まで楽しめる 。ここでは、ヒルトップのような「現実」とは異なる、物語の世界を純粋に楽しむことができる。
以下の表は、物語の舞台となった主要な場所とその関連情報をまとめたものである。
スポット名 | 関連作品・モデル | 所在地 | アクセス | 見どころ |
ヒルトップ・ハウス | 『ひげのサムエルのおはなし』、『こねこのトムのおはなし』など | Near Sawrey | ボウネスからボートとバス(599番)で約10分 | ポターが暮らしたそのままの姿で保存された家と庭。 |
タワーバンク・アームズ | 『あひるのジマイマのおはなし』 | Near Sawrey | ヒルトップから徒歩5分 | 物語に登場するパブで、今も営業している。 |
マクレガーさんの畑 | 『ピーターラビットのおはなし』 | ヒルトップ農場内 | ヒルトップの見学と併せて訪れる | 映画の舞台にもなった畑の入り口と石垣。 |
レイ・キャッスル | ポターが初めて湖水地方を訪れた館 | ウィンダミア湖畔 | ウィンダミア湖のクルーズで立ち寄り可能 | ポターが自然保護に目覚めた運命の場所。 |
ザ・ワールド・オブ・ビアトリクス・ポター | 全作品 | Bowness-on-Windermere | ボウネス中心部 | 物語の全キャラクターがジオラマで再現された博物館。 |
『ピーターラビット』は単なる子供向けの絵本やキャラものではない。それは、作者ビアトリクス・ポターの個人的な人生の軌跡、そして彼女が湖水地方の美しい自然と文化を守るために捧げた生涯の闘いを象徴するものである。彼女の文学的成功は、単に個人の富を築くためではなく、その物語を生み出した「源泉」である自然を守るための手段となった。
彼女の遺産は、芸術作品が単なる娯楽に留まらず、社会や環境に深い影響を与え得ることを示している。創造的な活動が実体的な価値を生み出し、未来の世代に引き継がれる文化と風景を保護するための財源となりうることを、彼女は身をもって証明した。
彼女が守り抜いた湖水地方の文化的景観は、絵本と同様に、今後何世紀にもわたって世代を超えて愛され続けるだろう。ポターの人生と湖水地方の絆は、単なる文学史の一ページではなく、文学、環境保護、そして人間の営みが織りなす、時代を超えて語り継がれるべき壮大な物語なのである。
まとめるに参考とした文献など
MWL STORE 編集:この分析はビジネスマンや経営者はもとより、あえて商売している個人事業主や、芸術家、などに読んで知っておいていただきたい、「最・シン」の理論であると今日現在の私は思っています。特に一人でモノ造りをしている人タチは個の世界に埋没しがちで、またそれでいいと思っている人も多い、それをよりシンにするに、「きっかけ」をくれうる文献であると思う、もちろんもっともっと膨大なものなのですが、それはここから一緒に勉強してまいりましょう。まずは「きっかけ」はこのあたりから。もっと学ぶことでいろんなものが変わっていく。
日本の経営と経済の現状を分析する上で、長らく支配的であった「失われた30年」という悲観的な見方に一石を投じるのが、ドイツ人経営学者ウリケ・シェーデ教授である。カリフォルニア大学サンディエゴ校グローバル政策・戦略大学院の教授であり、日本企業の企業戦略を専門とするシェーデ氏は、その経歴を通じて日本と深い関わりを持ってきた。ドイツのボン大学で日本語を学んだ後、一橋大学大学院の博士課程を経て、フィリップ大学マールブルクで日本学と経済学の博士号を取得している 。日本銀行金融研究所の客員研究員や三菱総合研究所のアドバイザーを務めるなど、9年以上にわたる日本での研究生活は、彼女に日本経済を内側から深く理解する機会を与えた 。
この長期間にわたる日本での経験と、外部の学者としての客観的な視点が、彼女の議論の土台を形成している。日本の多くの人々が内側から抱きがちな「悲観バイアス」から自由な立場から、日本の経済動向を分析できる点が彼女の強みである 。日本のメディアや社会に蔓延する「停滞する日本」という見方に対し、彼女は「変貌を遂げて再浮上する日本」に目を向けるべきだと主張する 。この主張は、日本の社会内部で定着してしまった自己批判的な物語に対し、新たな評価軸を提示するものであり、その重要性は非常に高い。
シェーデ教授の最新刊『シン・日本の経営—悲観バイアスを排す』の核心は、「失われた30年」という通説を根本から覆すことにある 。彼女は、1990年代初頭からの日本経済の停滞は、単なる衰退や無能さの証ではなく、産業構造や企業経営、戦略が大きく変化する「システム転換期」であったと論じる 。この見方は、日本の経済状況を「失敗」として捉えるのではなく、「緩やかな変革」のプロセスとして再解釈するものである 。この再評価は、単なる歴史の書き換えではなく、現在の日本企業が持つ潜在的な強みと、それを活かすための新たな戦略を考える上で不可欠な視点を提供する。
タイトな文化と緩やかな進化:停滞は選択だったのか
シェーデ教授は、日本経済の変革の遅さを「タイトな文化」という独自の概念で説明する 。この「タイトな文化」とは、行動の規範が厳格に定められ、人々の合意形成を重視し、逸脱を強く制裁する社会を指す 。これに対し、米国のような「ルーズな文化」は、個人の自由を尊重し、急激な変化や競争を是とする 5。
シェーデ教授は、日本が変化の速度をあえて遅くしたのは、社会的な安定と秩序を保つための意識的な選択であったと指摘する 。彼女によれば、この「スローな変革」の代償として、日本は極度の貧富の格差、政治的分断、高い失業率、暴動や略奪といった、米国社会が直面したような混乱を回避することができた 。これは、変化の速度を「優劣」ではなく、それぞれの文化に根ざした「差異」として捉えるべきだという彼女の主張に繋がる 。日本の企業は、この文化的背景に沿って、痛みを伴う変革を時間をかけて進めてきた 。この長期的なアプローチこそが、日本の強みであり、持続的な進化の基盤となっている。
日本の企業が再浮上を遂げている具体的な戦略として、シェーデ教授は「舞の海戦略」という概念を提唱する 。これは、かつての「最終製品」に強みを発揮していたビジネスモデルから、素材や部品といった中間財、すなわち「見えざる技術」に特化するモデルへの転換を指す 。米国人向けの著書では「集合ニッチ戦略(Collective Niche Strategy)」と称されており、複数の隣接する技術分野で高いシェアを占めることで、グローバルなサプライチェーンの中で不可欠な存在となる戦略である 。
この戦略は、複数の技術的バブルにおいて支配的な地位を確立することと、複数の日本企業がある分野で高いシェアを握るという二つの特徴を持つ 。その典型例として、日東電工が先端材料の隣接市場で多くのニッチ商品を開発していることや、ファナックがロボットや工場自動化の分野で高いシェアを誇ることが挙げられる 。また、日本製鉄もカーボンニュートラルへの挑戦など、技術の最先端で競争する姿勢を示している 。グローバルなサプライチェーン、特にiPhoneの製造プロセスにおける日本の素材・部品の重要性は、この戦略の有効性を象徴する事例である 。この「舞の海戦略」は、短期的な成果を求めない日本の「タイトな文化」から生まれた、深層技術を長期的に育成するアプローチの結晶である。
*ここで言う「舞の海戦略」とは「技のデパート」という言葉に解釈すると分かりやすい by MWL
シェーデ教授は、再浮上を遂げている日本の先進企業を分析し、共通して取り組んでいる7つの要素を「7つのP」として体系化している 。これらの要素は、単独ではなく相互に関連し、組織全体で統一されて初めて機能する 。
1.Profit(利益): 売上重視から利益重視への転換 。
2.Plan(戦略): 明確な経営戦略の策定 。
3.Paranoia(危機意識): 全社員が共有する健全な危機意識 。
4.Parsimony(効率性): 無駄を排除し、効率性と生産性を追求 。
5.PR(情報の透明性): 経営や業務に関する情報の透明性を高める 。
6.People(リーダーシップ): 経営者がビジョンを示し、人材育成を重視 。
7.Pride(幸福感): 従業員が生き生きと働き、幸福を感じる文化の醸成 。
これらの要素は、昭和時代の不透明でプロセス重視の人事制度からの脱却を意味する 。例えば、昇進基準が不明瞭で社内政治が横行していた時代に対し、新しい人事制度は透明性を確保し、従業員が仕事そのものに集中できる環境を整えることを目指している 。経営陣と人事部門が一体となり、企業戦略と人事制度を連動させることで、抜本的な変革が可能になるという考えが背景にある 。
2009年、日立製作所は7873億円という巨額の赤字を計上し、経営危機に直面した 。この危機的状況が、同社の抜本的な経営改革の契機となった 。日立は、従来の「モノ売り」を中心とした事業モデルから、IoT、AI、ビッグデータを活用した「社会イノベーション事業」へと大きく舵を切った 。この変革の中心には、デジタル技術を駆使して顧客や社会の課題を解決するプラットフォーム「Lumada」が据えられた 。これは、単に製品を提供するのではなく、サービスとしての価値を創造するという、根本的なビジネスモデルの転換であった 。
財務・組織改革と「7つのP」の実践
日立の変革は、まさに「7つのP」の考え方を体現している。まず、財務面では売上高ではなく、利益率やROIC(投下資本利益率)を重視する経営へと転換した 。2009年以降、戦略的な事業ポートフォリオの見直しや、定常ITコストの削減を含むIT構造改革を断行し、収益性とキャッシュフローを大きく改善させた 。その結果、営業利益率は大きく向上し、2018年度にはリーマンショック前の2倍の水準に達している 。 直近においてはご承知の通りである。日産ができなかったことを早く気づき、早く着手し、成し遂げている。by MWL
シェーデ教授の日本経済論は、従来の悲観論を覆す画期的なものである一方で、いくつかの批判的意見も存在する 。例えば、彼女の分析が「明るく考えすぎ」であるという見方や、その事例が製造業、特にB2Bや素材産業に偏っているという指摘がある 。確かに、彼女が言及する成功事例(日立、AGC、日東電工、ファナックなど)は、いずれも「舞の海戦略」を体現する製造業の企業である 。この点は、彼女の理論が非製造業やサービス業にも普遍的に適用できるのか、という問いを投げかける 。
しかし、このような批判的な意見自体が、シェーデ教授が指摘する「悲観バイアス」の根深さを示しているとも捉えられる。長年にわたる経済停滞の物語に慣れ親しんだ人々にとって、現状を肯定的に捉える見方は違和感を伴うものなのかもしれない。
非製造業・サービス業への適用可能性
シェーデ教授の議論は、主に製造業の変革に焦点を当てているが、その中核にある考え方は非製造業やサービス業にも応用可能である 。例えば、「舞の海戦略」は、複数の隣接する技術的ニッチを支配するのではなく、「複数の高付加価値サービス・ソリューションのポートフォリオ」を構築する戦略として再解釈できる。
また、「7つのP」は普遍的な経営原則である。サービスの品質、顧客満足、情報の透明性、そして従業員の幸福感は、いかなる業界においても競争優位性の源泉となりうる 。サービス業が抱える生産性の課題は、デジタル化や生成AIの活用、そして日立が実践したような組織変革を通じて、解決できる可能性がある 。製造業が経験したような「壊滅的な危機」がまだ訪れていないサービス業では、自発的な変革のインセンティブが低いかもしれないが、デジタル技術の進展が、今後の変革を促す触媒となることが期待される。つまり議論を持って着手するは今であると言える。
ウリケ・シェーデ教授の分析は、日本が「失われた30年」を経験したという通説は、事実の一面しか捉えていないことを示唆している 。日本の経済は停滞していたのではなく、その文化的特性である「タイトな文化」を活かし、社会的な混乱を回避しながら、ゆっくりと、しかし確実に変革を進めてきたのである 。
日本企業が今後目指すべき道は、米国のような「ルーズな」モデルを安易に模倣することではなく、自らの強みを再認識し、それを磨き上げることである 。具体的には、以下の点が挙げられる。
1.悲観バイアスを乗り越える:内在する悲観的な見方を払拭し、自社の潜在的な強みと成功事例を客観的に評価する姿勢を持つこと。
2.「7つのP」の統合:利益志向、明確な戦略、効率性、そして何より経営陣と人事部門が一体となった人材戦略を徹底的に実行すること。
3.「舞の海戦略」の深化: 最終製品だけでなく、高付加価値な素材、部品、そしてサービスといった「見えざる技術」に投資し、グローバルサプライチェーンにおける不可欠な地位を確立すること。
これらの取り組みを通じて、日本企業は独自の方法でグローバルな競争力を再構築し、持続可能な成長を実現できる 。シェーデ教授の理論は、日本のビジネスリーダーに対し、自国の経済と企業の真の姿を再評価し、未来に向けた独自の道筋を描くための、極めて重要な羅針盤を提供している。
引用文献
原作文献を是非ご購入の上1年ぐらいそばにおいて読み返していただきたい。自分にDLさせる。
工芸と民藝はどちらも人の手で作られる品物ですが、その概念や背景には大きな違いがあります。
実用性と芸術性の両立: 工芸は、日常生活で使われる機能を持つと同時に、美的価値も追求して作られたものを指します。
技術と美しさ: 熟練した職人の高度な技術によって、素材の特性を活かし、装飾的な美しさを加えることが重視されます。
作者の存在: 名のある職人や作家が、個人の技術や感性を表現する場として捉えられることが多いです。
「民衆的工芸」の略: 大正時代に、思想家の柳宗悦(やなぎ むねよし)や陶芸家の河井寬次郎、濱田庄司らによって提唱された「民藝」という造語です。「民衆の工芸」を意味します。
「用の美」の発見: 民藝運動の中心的な思想は、特別な芸術品ではなく、名もなき職人たちが日々の生活のために作った、素朴で飾り気のない日用品の中にこそ、真の美しさ(「用の美」)があるというものです。
無銘性と複数性: 特定の作者の名前が表に出ることは少なく、大量に作られることで多くの民衆の暮らしを支えてきたものが中心です。
地方性・伝統性: その土地の風土や伝統的な技術、素材を用いて作られるため、それぞれの地域に根ざした独自の色や形を持っています。
項目 | 工芸 | 民藝 |
定義 | 実用性と美的価値を兼ね備えた工作物 | 日常生活のために作られた民衆的な工芸品 |
作者 | 名のある職人・作家が手掛けることが多い | 名もなき職人によって作られることが多い |
目的 | 実用性に加え、美術的な美しさを追求する | 日用品としての「用の美」を追求する |
生産方法 | 個々の職人による手作業、または工房での分業 | 地域全体で受け継がれた技術による生産 |
価値観 | 個人の卓越した技術や芸術性、希少性が評価される | 簡素さ、健康さ、安価さ、そして共同性が評価される |
白洲正子は、戦後の荒廃の中で伝統の美について語り、日本人の誇りを守った随筆家として知られています。彼女の美意識は柳宗悦の影響を受けながらも、より個人的で感覚的なものでした。
白洲の美学の特徴:
一方の柳宗悦は民芸運動の父として知られ、1926年に「日本民藝美術館設立趣旨」を発表し、1928年の主著『工藝の道』で「工芸の美は健康の美」「用と美が一体」という思想を確立しました。
柳の美学の特徴:
柳宗悦の「民藝」vs 白洲正子の「骨董」
学術研究によると、白洲正子は柳宗悦の「用の美」から出発しながらも、より個人的で感覚的な「骨董」の世界へと向かいました。これは「民芸から骨董へ」という美意識の転換として理解されています。
白洲正子は時に柳宗悦の民藝論に対して批判的な立場を取ることもありました。彼女は「自らの美意識に従って、歯に衣を着せぬ主張をする」独特の持ち味を持ち、常に辛口でありながらも深い洞察を示していました。
二人の思想は現代の日本文化にも大きな影響を与え続けています。柳宗悦の「用の美」の思想は現代のデザイン論や工芸論の基礎となり、白洲正子の骨董に対する眼は現代の美術品鑑賞や蒐集文化の発展に寄与しています。
共通点:
相違点:
柳宗悦と白洲正子は、それぞれ異なるアプローチで日本の美意識の本質を探求し、現代に至るまで多くの人々に影響を与え続けている、日本美学史における不可欠な存在なのです。
うちで年に数回ある作家さんの展示会にはこれらの視点から、偏ることなく作家さんにお声をおかけさせていただいております。それはもう始まった時からそうでした、「きっかけのきっかけ」は高山の安土草多さんと常滑の急須でした。作家さんのすべてがそうであるように、まずは日本の歴史や工芸の歴史の学びから始まっています。今店頭にある全ての作品の一つ一つには隅々までこれらの思想が息づいております。
ご一緒に勉強してまいりましょう。学びあってこその人間です、どこから、いつからでも始めることはできます。
ずっとこの人のこと、気になって。パドレスのマイク・シールド監督、ドジャースxパドレスの因縁具合は今に始まったことじゃなくて、去年にもあって、このシールドさんのキレ具合が素晴らしくて、選手の前に立って行っとるなぁーってね、今年の前回の対戦の時もそうでした、真っ先に飛び出してくる、ロバーツ監督とやり合ってた。この人の采配や人柄が伝わってきます。
ディレクターはメモとってチームのみんなを守って、新しい方向を指し示すってね、これも先輩の監督に教えてもらってる伝統ですよ、一塁コーチとかその前のバッティングコーチ、ピッチングコーチの時代にね。先人に習うです。