コンテンツへスキップ
火曜日の休みを利用して美術館に行ってきました。
そう、私の大好きな、全てが美しい美術館、特に内装の凄さ、そこにルーシーがやってくるとは。もう期待に胸を膨らませて行ってきました。。
期待通りで、、、一日中居てました。隅から隅まで詳細を見てきました。
ボウルもさることながら、花器ですよ、いいのは、ちょこっとね、いい季節の花を添えるってことで。
とうしてもこの写真を撮りたくなります。日本一のアール・デコ建築・特に内装
すごすぎる詳細
今回の展示の中に上野リチのグラスの展示があり驚きましたよ。目的はルーシーで来たから、なぜ?と思ったが、考えれば二人の師が共通だから、そして生きた年代もリチが9つ上ぐらいで、同じウィーンの出自でもあるから。。。
デザイナーの上野リチ(フェリーツェ・リキシ・ウエノ)と、陶芸家のルーシー・リー。二人が直接的に親密な共同制作を行ったという記録は目立ったものはないが、そのバックグラウンドには非常に深く、分かちがたい共通の「根」が存在していると思えてならない。
彼女たちの関係性を紐解くキーワードは、「20世紀初頭のウィーン」と「ウィーン工房(ヨーゼフ・ホフマン)」である。つまり私の好きな時代の始まりの部分。。。
共通の故郷と文化的背景
二人ともオーストリアのウィーンで、比較的裕福なユダヤ人の家庭に生まれました(上野リチは1893年、ルーシー・リーは1902年生まれ)。 当時のウィーンは、ウィーン分離派やウィーン精神に代表される、美術・建築・デザインがジャンルを超えて融合する非常に成熟した文化都市だった。二人はこのモダニズム前夜のみずみずしい空気感を吸って育っている。
師ヨーゼフ・ホフマンと「ウィーン工房」
これが二人を繋ぐ最大の接点。
-
上野リチ: ウィーン工芸美術学校で建築家ヨーゼフ・ホフマンらに師事。卒業後、彼が主宰する「ウィーン工房」の中心的なデザイナーとしてテキスタイルや壁紙、様々な応用芸術で才能を発揮した。
-
ルーシー・リー: 同じくウィーン工芸美術学校で学び、そこで轆轤(ろくろ)の魅力に取り憑かれて陶芸の道へ進みます。彼女もまたホフマンから高く評価され、ウィーン工房の展覧会などに作品を出品していた。建築や家具、衣服、日用品にいたるすべてをひとつの美意識で統一しようとする「総合芸術(ゲザムトクンストヴェルク)」の思想を、二人は共通の基盤として持っていた。
「装飾」のリチと、「形」のルーシー
二人ともウィーンのモダニズムから出発しながら、その後の表現の方向性は対照的であり、かつ補完的でもあった。。
-
上野リチは、生命力あふれる色彩と自由なファンタジーを用いた「装飾」の世界を広げ、のちに建築家・上野伊三郎との結婚を機に日本(京都)へと渡り、日本のモダンデザイン教育に大きく貢献した。
-
ルーシー・リーは、ナチスの迫害を逃れてイギリス・ロンドンへ亡命。ウィーン仕込みの洗練された都会的センスをベースに、無駄を削ぎ落とした優美なフォルム(形)と、独自の釉薬によるモダンな器のスタイルを確立していった。
近年の美術展における再評価
現在、庭園美術館で開催されているルーシー・リーの回顧展(「ルーシー・リー展 ―東西をつなぐ優美のうつわ―」など)では、彼女の表現の原点を探るセクションにおいて、上野リチ(およびウィーン工房の作家たち)の作品が並べて展示される機会が非常に増えている。
たとえば、ホフマンが形を作り、上野リチが表面の絵付け(装飾)を施したグラスと、ルーシー・リーの初期の器を同時に空間に置くことで、「陶芸家」としてだけではない、「ウィーンのモダンデザインの申し子としてのルーシー・リー」の輪郭が、上野リチの存在を通してより鮮明に浮かび上がるようになっている。
直接のバディというよりは、「同じ理想の土壌(ウィーン)から生まれ、一方は日本へ、一方はイギリスへと渡り、それぞれの場所で20世紀の美意識を更新した同郷の同志」という関係性がしっくりくるかもしれない。