投稿日: 9月 04, 2025

英国湖水地方が織りなす文化的景観遺産の解説

カテゴリー: 開物成務

私は湖水地方には1度、プーの100エーカーの森にも2度訪れている。それらをつぶさに見てきて思うのはイギリスにおける物語と環境保全と文化遺産の関係だろう。それらの、今回は湖水地方を報告書として解説していきたい。人生の晩年のまだ若いうちつまり60代終わりぐらいまでに、会社を卒業してからの旅の一つ目にお勧めしたい場所であります。ピーターもプーの物語もまずそこから入っています。それでとても好きになって、とにかく環境保全の規模が違う。なぜピーターにこだわり続けるか?です。

世界中で世代を超えて愛され続ける『ピーターラビット』の物語は、単なる子供向けの絵本にとどまらない。その創造の根源には、作者ビアトリクス・ポターの個人的な人生の軌跡と、英国北西部に広がる湖水地方の壮大な自然との、深く揺るぎない絆が存在する。この報告書では、ポターの人生がどのようにして湖水地方の文化的景観と結びつき、最終的に世界的な文学遺産および自然保護の象徴となったのかを、多角的な視点から詳細に分析する。ポターの創作活動の原点から、後半生を捧げた農場経営、そして自然を守るという壮大な遺産に至るまで、その物語が現代にまで継承される背景を探る。

第一部:都会の檻から「原風景」へ:創作の芽生え

ヴィクトリア朝の孤独な子供時代

ビアトリクス・ポターは1866年、産業革命で財を成した裕福な中産階級の家庭に生まれた 。当時の上流階級の慣習に従い、彼女は学校には行かず、家庭教師による教育を自宅で受けた 。弟が6歳で生まれるまで、彼女は他の子供と接する機会もほとんどなく、その内面は孤独に満ちていた 。   

しかし、この閉鎖的な環境は、皮肉にも彼女の並外れた創造性と、自然界に対する鋭い観察眼を育む土壌となった。彼女は自宅の庭の植物や昆虫、そしてペットとして飼っていたウサギ、カエル、イモリ、ヘビなど様々な動物たちを飽くことなくスケッチし、その画才を着実に伸ばした 。彼女は後に、もし学校に通っていたら、教育によって独創性が薄れていただろうと語っている 。この事実は、彼女の恵まれた境遇がもたらした孤立が、彼女の芸術的感性を形成する上で不可欠な要素であったことを示唆している。彼女にとって、ロンドンは「束縛の象徴」であり、夏の休暇で訪れる田舎こそが「人格的独立の象徴」であったという分析は、彼女の創作の核心に深く根差した精神的な対立を浮き彫りにするものである 。   

湖水地方との運命的な出会い

ポター家は毎年、3ヶ月に及ぶ長い夏季休暇を風光明媚な場所で過ごすことを常としていた 。幼い頃からスコットランドの田舎で自然への愛を育んだポターは、16歳になった1882年の夏に初めて湖水地方を訪れる 。   

彼らが滞在したのは、ウィンダミア湖のほとりに建つゴシック様式の館、レイ・キャッスルであった 。この地で彼女は、のちにナショナル・トラストの創設メンバーとなるハードウィック・ローンズリーらと出会い、彼らが構想していた地元の自然保護運動に深く共感した 。この16歳の夏の経験は、単なる休暇の思い出に留まらなかった。それは、彼女が創作活動を通じて得た成功の果実を、その創作の源泉である自然の保護に捧げるという、彼女の生涯の方向性を決定づける重要な転換点となったのである。物語の誕生は、同時にその舞台となる地の未来を救うという、彼女の個人的な使命の始まりでもあった。   

第二部:ヒルトップ:物語が現実となる場所

『ピーターラビットのおはなし』の成功と農場の購入

ポターが友人の子供に宛てた手紙から生まれた『ピーターラビットのおはなし』は、1902年に出版されるやいなや世界的な大成功を収めた 。ポターは、このベストセラー絵本の印税収入を元に、1905年、かねてより心を奪われていた湖水地方のニア・ソーリー村に「ヒルトップ・ファーム」という農場を購入した 。   

彼女のヒルトップへの移住は、個人的な自由と独立への強い渇望だけでなく、当時の社会的潮流とも深く結びついている 。急速な工業化と人口増加で環境が悪化した大都市ロンドンを離れ、田園地帯に理想郷や別荘を求める富裕層の動きが活発化していた時代に、ポターはまさにその思想を体現したのである 。彼女のこの選択は、個人的な幸福の追求と、より大きな「田園志向」という文化的運動の交差点に位置づけられる。

『ポター三十六歳の頃の成功であり、パリではアール・ヌーヴォーからアール・デコだった時代を生きている、白洲次郎も同時代に生まれ、重要な時期をイギリスのカントリーサイドで過ごしていて、武相荘の根源となっていると言える。正子でなくて次郎であるのだその武相荘の根源は。』プリンシプルである。

絵本に描かれた「実在する風景」

ヒルトップと、そこから徒歩5分ほどの場所にあるカースル・コテージ 、そしてその周辺のニア・ソーリー村は、ポターの作品の主要なインスピレーション源となった。彼女は自身の家や庭、村の風景を熱心にスケッチし、それを物語の背景として忠実に描き込んだ 。   

物語と関連する具体的な場所は以下の通りである。

  • ヒルトップ・ハウス内部: 『ひげのサムエルのおはなし』でサムエルが通り抜ける階段の踊り場 や、『2ひきのわるいねずみのおはなし』に登場するドールハウスの小物 は、ポターが暮らした当時のまま現存している。   

  • ヒルトップ農場の庭: 『こねこのトムのおはなし』に出てくる白い門 や、映画『ピーターラビット』でマクレガーさんの畑として使用された場所 は、ヒルトップの敷地内にある。   

  • 村の風景: 『あひるのジマイマのおはなし』に登場するパブ「タワーバンク・アームズ」は今も営業しており 、村の赤いポストは『ピーターラビットのおはなし』に登場する風景そのものである 。   

このように、彼女の作品に描かれた世界は、湖水地方の実際の風景と見事に重なり合っている。

第三部:文学者から「自然の守護者」へ:ポターの遺産

ナショナル・トラストとの深い連携と土地購入

絵本作家として成功を収めた後、ポターは創作活動と並行して熱心な環境保護活動家となった 。彼女は『ピーターラビット』の印税を使い、周辺の農場や土地を少しずつ買い取り、開発から守る活動に専念した 。これは、彼女の文学的な成功が、その物語を生み出した「源泉」である自然を守るための手段となった、文学史において稀な例である 。   

ハードウィック・シープと伝統文化の継承

ポターの保護活動は、単に風景を守るだけに留まらなかった。彼女は自らの農場で、湖水地方の風景に欠かせない在来種のヒツジである、ハードウィック・シープの飼育に尽力した 。この羊は絶滅の危機に瀕していたが、彼女はハードウィック・シープの放牧が牧草地の景観を維持するために不可欠な要素であると考えた 。   

彼女は、自然と人間の営みが一体となって初めて美しい景観が維持されることを直感的に理解していた。これは、生物多様性の保護と文化的伝統の継承が不可分であるという、現代に通じる卓越した環境保護思想家としての彼女の側面を示している。

世界遺産登録における貢献

ポターは、自身の死後も湖水地方の自然が守られることを強く願っていた。彼女は1943年に亡くなる際、遺言によりヒルトップを含む15の農場と4,000エーカー(約1,600ヘクタール)以上の広大な土地をナショナル・トラストに遺贈した 。この膨大な遺産により、現在、湖水地方の約4分の1がナショナル・トラストの管理下に置かれ、開発から守られている 。   

2017年、湖水地方は世界遺産に登録された 。その登録理由は、氷河期に形成された「手つかずの自然」と、ワーズワースやポターら芸術家の創作活動によって育まれた「人々の営みが織りなす文化的景観」が評価されたことにある 。ポターの生涯にわたる努力は、この地の景観を保護し、その文化的・歴史的価値を現代にまで繋げる上で決定的な役割を果たしたのである。彼女がいなければ、私たちが絵本で見た風景は失われていた可能性が高く、世界遺産への登録も実現しなかったかもしれない。

第四部:ポターの愛した世界を巡る旅:現代の巡礼

ヒルトップ・ハウスの見学

ポターの遺言に基づき、ヒルトップ・ハウスは彼女が暮らした「そのままの姿」で保存されており、世界中から訪れる『ピーターラビット』ファンの真の聖地となっている 。ヒルトップの運営は、観光客に「本物」の体験を提供しつつ、遺産の保全を最優先するというナショナル・トラストの使命を象徴している。   

ハイシーズンには1日に500人以上が訪れるため、入場は時間制となっており、事前にチケットを予約することが強く推奨されている 。また、建物や調度品の大規模な保存作業のため、冬期は閉館する 。これらの措置は、この場所が単なる商業施設ではなく、未来の世代に引き継ぐべき貴重な文化遺産として、繊細なバランスの上で維持されていることを示している。   

ポターの愛した湖水地方には、ヒルトップ以外にも物語の世界に浸れる場所が数多く存在する。

  • ウィンダミア (Windermere): ロンドンからのアクセスが良好な湖水地方観光の玄関口であり、最大の湖であるウィンダミア湖を擁する。鉄道とバスの拠点であり、ホテルやB&Bが集まる 。   

  • ボウネス (Bowness): ウィンダミア湖畔の中心的な港町で、遊覧船クルーズの発着地でもある。お土産物屋やカフェが充実しており 、『ピーターラビット』の世界を体感できる没入型博物館「ザ・ワールド・オブ・ビアトリクス・ポター」がある 。   

  • ザ・ワールド・オブ・ビアトリクス・ポター博物館 (The World of Beatrix Potter): 絵本の世界観を再現したジオラマやオブジェが展示されており、子供から大人まで楽しめる 。ここでは、ヒルトップのような「現実」とは異なる、物語の世界を純粋に楽しむことができる。   

以下の表は、物語の舞台となった主要な場所とその関連情報をまとめたものである。

スポット名 関連作品・モデル 所在地 アクセス 見どころ
ヒルトップ・ハウス 『ひげのサムエルのおはなし』、『こねこのトムのおはなし』など Near Sawrey ボウネスからボートとバス(599番)で約10分 ポターが暮らしたそのままの姿で保存された家と庭。
タワーバンク・アームズ 『あひるのジマイマのおはなし』 Near Sawrey ヒルトップから徒歩5分 物語に登場するパブで、今も営業している。
マクレガーさんの畑 『ピーターラビットのおはなし』 ヒルトップ農場内 ヒルトップの見学と併せて訪れる 映画の舞台にもなった畑の入り口と石垣。
レイ・キャッスル ポターが初めて湖水地方を訪れた館 ウィンダミア湖畔 ウィンダミア湖のクルーズで立ち寄り可能 ポターが自然保護に目覚めた運命の場所。
ザ・ワールド・オブ・ビアトリクス・ポター 全作品 Bowness-on-Windermere ボウネス中心部 物語の全キャラクターがジオラマで再現された博物館。

結論:物語を超えて:時代を超越する絆

『ピーターラビット』は単なる子供向けの絵本やキャラものではない。それは、作者ビアトリクス・ポターの個人的な人生の軌跡、そして彼女が湖水地方の美しい自然と文化を守るために捧げた生涯の闘いを象徴するものである。彼女の文学的成功は、単に個人の富を築くためではなく、その物語を生み出した「源泉」である自然を守るための手段となった。

彼女の遺産は、芸術作品が単なる娯楽に留まらず、社会や環境に深い影響を与え得ることを示している。創造的な活動が実体的な価値を生み出し、未来の世代に引き継がれる文化と風景を保護するための財源となりうることを、彼女は身をもって証明した。

彼女が守り抜いた湖水地方の文化的景観は、絵本と同様に、今後何世紀にもわたって世代を超えて愛され続けるだろう。ポターの人生と湖水地方の絆は、単なる文学史の一ページではなく、文学、環境保護、そして人間の営みが織りなす、時代を超えて語り継がれるべき壮大な物語なのである。

まとめるに参考とした文献など

ONLINEジャーニー

TRIP EDITOR

投稿日: 9月 02, 2025

「きっかけ」

カテゴリー: 開物成務

MWL STORE的 多様性のある「学び」シリーズ、題して:「きっかけ」

工芸と民藝はどちらも人の手で作られる品物ですが、その概念や背景には大きな違いがあります。

工芸とは

  • 実用性と芸術性の両立: 工芸は、日常生活で使われる機能を持つと同時に、美的価値も追求して作られたものを指します。

  • 技術と美しさ: 熟練した職人の高度な技術によって、素材の特性を活かし、装飾的な美しさを加えることが重視されます。

  • 作者の存在: 名のある職人や作家が、個人の技術や感性を表現する場として捉えられることが多いです。

民藝とは

  • 「民衆的工芸」の略: 大正時代に、思想家の柳宗悦(やなぎ むねよし)や陶芸家の河井寬次郎、濱田庄司らによって提唱された「民藝」という造語です。「民衆の工芸」を意味します。

  • 「用の美」の発見: 民藝運動の中心的な思想は、特別な芸術品ではなく、名もなき職人たちが日々の生活のために作った、素朴で飾り気のない日用品の中にこそ、真の美しさ(「用の美」)があるというものです。

  • 無銘性と複数性: 特定の作者の名前が表に出ることは少なく、大量に作られることで多くの民衆の暮らしを支えてきたものが中心です。

  • 地方性・伝統性: その土地の風土や伝統的な技術、素材を用いて作られるため、それぞれの地域に根ざした独自の色や形を持っています。

主な違いのまとめ

項目 工芸 民藝
定義 実用性と美的価値を兼ね備えた工作物 日常生活のために作られた民衆的な工芸品
作者 名のある職人・作家が手掛けることが多い 名もなき職人によって作られることが多い
目的 実用性に加え、美術的な美しさを追求する 日用品としての「用の美」を追求する
生産方法 個々の職人による手作業、または工房での分業 地域全体で受け継がれた技術による生産
価値観 個人の卓越した技術や芸術性、希少性が評価される 簡素さ、健康さ、安価さ、そして共同性が評価される

白洲正子:「骨董」という個人的美意識の体現者

白洲正子は、戦後の荒廃の中で伝統の美について語り、日本人の誇りを守った随筆家として知られています。彼女の美意識は柳宗悦の影響を受けながらも、より個人的で感覚的なものでした。

白洲の美学の特徴:

  • 骨董への愛: 五感による感覚至上の美の世界
  • 直観(感でなくて)の美学: 理論より感覚を重視した美意識
  • 無用の美: 実用性を超えた純粋な美の追求
  • 自由な審美眼: 既成の価値観にとらわれない独自の美意識

柳宗悦:「用の美」の提唱者

一方の柳宗悦は民芸運動の父として知られ、1926年に「日本民藝美術館設立趣旨」を発表し、1928年の主著『工藝の道』で「工芸の美は健康の美」「用と美が一体」という思想を確立しました。

柳の美学の特徴:

  • 無名性の美: 名もなき職人の手から生まれた日常の生活道具に見出される美しさ
  • 用の美: 実用性と美しさが一体となった美の概念
  • 健康の美: 自然で作為のない素朴な美しさを重視
  • 仏教美学: 晩年には民芸の本質を仏教思想で解明し、他力による美を説いた
  • ブルジョワジーのプロレタリアート的理解、テクノクラートの芸術賛

柳宗悦の「民藝」vs 白洲正子の「骨董」

学術研究によると、白洲正子は柳宗悦の「用の美」から出発しながらも、より個人的で感覚的な「骨董」の世界へと向かいました。これは「民芸から骨董へ」という美意識の転換として理解されています。

  • 柳宗悦: 集団的・思想的な美の理論化
  • 白洲正子: 個人的・感覚的な美の実践

白洲正子は時に柳宗悦の民藝論に対して批判的な立場を取ることもありました。彼女は「自らの美意識に従って、歯に衣を着せぬ主張をする」独特の持ち味を持ち、常に辛口でありながらも深い洞察を示していました。

現代への影響

二人の思想は現代の日本文化にも大きな影響を与え続けています。柳宗悦の「用の美」の思想は現代のデザイン論や工芸論の基礎となり、白洲正子の骨董に対する眼は現代の美術品鑑賞や蒐集文化の発展に寄与しています。

共通点:

  • 日本の伝統美への深い愛情
  • 西洋的価値観への批判的視点
  • 美の実践的体現

相違点:

  • 理論vs感覚
  • 普遍性vs個別性
  • 社会性vs個人性

柳宗悦と白洲正子は、それぞれ異なるアプローチで日本の美意識の本質を探求し、現代に至るまで多くの人々に影響を与え続けている、日本美学史における不可欠な存在なのです。

うちで年に数回ある作家さんの展示会にはこれらの視点から、偏ることなく作家さんにお声をおかけさせていただいております。それはもう始まった時からそうでした、「きっかけのきっかけ」は高山の安土草多さんと常滑の急須でした。作家さんのすべてがそうであるように、まずは日本の歴史や工芸の歴史の学びから始まっています。今店頭にある全ての作品の一つ一つには隅々までこれらの思想が息づいております。

ご一緒に勉強してまいりましょう。学びあってこその人間です、どこから、いつからでも始めることはできます。

投稿日: 8月 29, 2025

安土桃山時代と大正デモクラシー

カテゴリー: 開物成務

もうそろそろホームページの形態やデザインそのものも変えたいなと流石に思います。10年もしてます。

MWL STOREの解釈としての日本の歴史と日本ならではのモノの生まれを考察していきます。

テーマは複雑な美意識

 

時代には重要な要素としての期間つまり年数があります。ただ長いだけではなくて、短くとも日本の歴史に珠玉に輝ける時代のこと。MWL STORE的にはそれはまず安土桃山の30年、そして大正の15年、大正デモクラシーってやつですね。これが実は、この時代がとてもいいのです、明治が終わって、戦争の昭和との中に挟まれていた時代、紐解いていきますとね、素敵な時代だったんだなぁってね。さ、参りましょう、私と共に大正デモクラシーの時代へ、それはまさに上野リチが生きた時代だったのです。その影響がMWL STOREの壁紙に残されています。そうあの花柄はモリスでもリバティでもなくて、日本の上野リチなのです。

でも、そこにたどり着いたのは、リチにですね、それはヨーゼフ・ホフマンだったのです私には、きっかけですね。1980年代の初めの頃に私が学んだウィーン芸術です。クリムトからホフマンまでの、つまりウィーン分離派のことですね、この創造性、芸術性の高い集団たちの虜にその時代なっていたのでした。今はそれを思い出として、数ある知見の一つとして抽出してまいります。長いよ。いっぱいあるから経験が。

前段としてあるのは、東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)日本で最高のアール・デコ様式の建築が完全に保管されているところ。私はウィーン分離派からアール・デコに入り、そしてバウハウスに辿り着く、そしてイームズかな。でも太い幹としてのアートはウィーン分離派からのアール・デコ。

 

文献としての

「ウィーン分離派とアール・デコの関連性を考察する」第一回 by MWL STORE

アール・デコとウィーン分離派は、それぞれ異なる時代と地域で発展した芸術運動ですが、その間には明確な関連性があります。 ウィーン分離派がアール・ヌーヴォーの派生として、その後のアール・デコに大きな影響を与えたと考えられています。

 

幾何学的な様式への移行

アール・ヌーヴォーは、花や植物の曲線的なモチーフを特徴とする装飾様式でした。一方、ウィーン分離派は、その装飾性を保ちつつも、より幾何学的なデザインや直線を取り入れる傾向が強かったのです。これは、アール・ヌーヴォーの様式が発展する過程で、ウィーンという地域的な特性から生まれたもので、この幾何学的な志向が、後に登場するアール・デコの先駆とみなされています。アール・デコは、産業革命後の工業的な時代背景を反映し、シンプルで機能的な幾何学模様や直線、左右対称の構成を重視しました。ウィーン分離派の建築家やデザイナー、特にヨーゼフ・ホフマンやコロマン・モーザーらが率いたウィーン工房の作品は、アール・デコ様式に見られる直線や単純化された形態をすでに示していました。

 

総合芸術としての共通点

ウィーン分離派とアール・デコは、どちらも絵画や彫刻といった純粋芸術だけでなく、建築、家具、工芸品、ファッションなど、生活のあらゆる分野に芸術を取り入れようとする総合芸術(Gesamtkunstwerk)の思想を共有していました。ウィーン分離派は、伝統的なアカデミズムから分離し、芸術と生活の融合を目指しました。アール・デコもまた、裕福な層だけでなく大衆にも広まり、建築様式や日常的なプロダクトデザインとして世界的に流行しました。この、芸術を日常生活に浸透させようという理念は、ウィーン分離派からアール・デコへと引き継がれた重要な要素です。

 

影響と系譜

ウィーン分離派の活動は、1920年代にパリで開催された「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」(アール・デコ博)を契機として世界的に広まったアール・デコ様式に大きな影響を与えました。アール・ヌーヴォーが衰退する中で、その装飾性を工業生産に適した形に再構築したのがアール・デコであり、その再構築の過程において、ウィーン分離派が示した直線的で幾何学的なデザインが重要なヒントとなったのです。したがって、アール・デコはウィーン分離派とアール・ヌーヴォーが持つ要素を融合し、よりモダンで洗練されたスタイルとして成立したと言えます。

ブログは多岐に渡りますので、次回をお楽しみに。

いか、その時代に創られたもの、ファッション

 
 
 
 
 
東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)

投稿日: 8月 15, 2025

ウィーン分離派からウィーン工房へ

カテゴリー: 開物成務
上野伊三郎は、祖父の代まで京都の宮大工であった上野工務店の経営者の長男として生まれました。宮大工の修行を行うも、伝統的な技術の習得には飽きたらず、早稲田大学理工学部建築学科にすすみました。卒業後、1922年から4年間、ベルリンとウィーンに留学し、ベルリンでは構造学を、ウィーンでは振動学を学んだといわれ、ウィーン工房を主宰していたヨーゼフ・ホフマンの建築事務所に勤務します。上野伊三郎のウィーンでの活動は謎に包まれたままですが、1925年にリチと出会い、結婚しました。

  2009年に行った時のフライヤーから。

アールヌーボー→アールデコ→ミュンヘン分離派→ウィーン分離派→ウィーン工房→バウハウス→チャールズ&レイ・イームズ→アイクラーホームズ クラッシックからモダニズムそしてモダンさらに量産モダニズムへ。世紀末から大戦後の高度成長までのデザインの系譜である。これをデザインの枝葉を引用しながら学ぶことでほとんどの現代デザインは理解できる。

個人の成長や企業人の成長にアドバイザーやコーチングは不可欠である。社内では無理だ。優れた事業にするためには、なぜか、知らないを知ることからしか気付きやゼロイチなど生まれないからで、それには膨大な量で蓄積されている人から直接聞くのが一番早い。謙虚な個人にである。上からでなくである。年齢じゃなく、気付いた時に着手することが20年も経てば大きな結果になっている。気づけばあっという間である。だから今着手することである。個人でも企業でもである、個人店でもである。

 
 
 
 
MWL STORE 元町におけるリチの壁紙とVITSOEの什器とベンジャミン・ムーアのペイント、壁面の壁の色の部分はすべてベンジャミン・ムーア

上野リチ、その偉大な功績足跡

投稿日: 8月 07, 2025

日本工芸の礎

カテゴリー: 開物成務

金沢に移転した国立工芸館の移転の意味など、白洲正子さんの周辺を辿ると見えてくる。

そして、やはり奈良なのだということも、日本の大事なものはほとんど奈良にある。

東大寺の大仏さんと二月堂、好きですワ。

正子んちで買った日本タオル、さっそく。

襟をただそう、店にあるあらゆるモノの目利きの目を。

投稿日: 8月 04, 2025

工芸

カテゴリー: 開物成務

これは買わんとね、正子を持って鶴川の武相荘に夏休み〜♪ やね。芸術新潮♫ほんまにセンスえーわ。新潮社サイコ さぁ、勉強の夏や

投稿日: 7月 24, 2025

ふるさとは遠きにありて想ふもの

カテゴリー: 街物語, 開物成務
60年前に宝塚市自身が発行した、自分には貴重な本 故郷を想わない日はない
宝であり、塚であるという歴史的な背景
神奈川芸術劇場KAATなどの「舞台」に特別な想いを持ち続ける理由は、ここから。
宝塚大花火大会、もうすでに休止になった何年も前に、人口増加による周辺住宅環境の変化での安全確保の問題、人員やいろんな整備や花火に関わる予算の増大を維持できないことのようです、安全上は無理ですね、ちらほらしか家がなかった時代とは異なりますからね。仕方ないす。でも僕らが子供の頃の一年一度の大きな楽しみだった、二日間ありましてね、宝塚小学校の校庭で見てましたねいつも。
あの強炭酸ウィルキンソンのルーツの場所、自然に湧いていた炭酸水をソーダ水として商品化した、ティーソーダにウィルキンソンを使い続ける理由であります。今は工場は無くなっていて、アサヒビールの工場で作られています。ここは元祖。前に武庫川が流れていて、いつも泳ぎにきていた。
慶應から三井銀行、そして阪急の創業、宝塚歌劇団の創業、小林一三先生の銅像、郊外住宅開発、ターミナルデパート、などなど全て先生の発案である。東急も西武も全てそれを真似た。世界にも類も例もない都市開発の礎、今もまだそれの延長線上にある日本の都市開発。それに東宝という映画というかコンテンツビジネスがついてくるのだから阪急はすごい。東宝とは東京宝塚の略であります。
 
ファミリーランドに併設されてた宝塚大プール、歩いてすぐだった、シゲオとプールと言えばここだった、中学初めの頃かな、ことあるごとにシゲオとファミリーランドだった。
宝塚の奥、西谷地区、市全体の3分の2は山の中やゴルフ場の宝塚 ダリアの花は有名だった。
市が編集した本、京都の淡交社が作っているというさすがな装丁です。

投稿日: 7月 20, 2025

九谷花瓶

カテゴリー: 開物成務

作家の想いが渾身に入り込む花瓶。この詳細の細部を見ていけば、どれほどの絵筆を駆使して色を駆使してこの作品に向かったろうと思う。そしてただ絵を載せるだけでなく、凸凹がある、造形の膨らみが随所にみれて、それが単なる絵筆だけのものでない凄みに至るのです。そして絵を通じて感じる全体のバランスの良さ、それは他作品全体にも言えて、ありきたりな表現と隔世しているレベル。

どうしてこの花瓶ができたのだろう、サイズといい、色、全方角から見ても魅力的な構図ばかりが描かれている。あぁ出会ってしまっている、すでに。

花瓶であります。 
伝統工芸士、その認定を40代前半で受けておられる。その平均は全国でも70代と言われている、産地が認める技量がすでにあったということに他ならない、しかも九谷という産地である。。。私はまずそこに気づいてしまった。切磋琢磨技量が高い産地の話であります。 40代のクリエイティブは自由にして闊達だったと思う、やりたいことでいっぱいだ、経験をようやく積んだかという年齢の入り口ということなのか、しかしそこに見た新世界があったのだろうし、それを評価された方々がいたのだろう。そしてひと所にとどまららずに精進されいる今の日々もあるように思えてならない。並外れているとしか、私には言えない。現在は54歳
 
美しい青 
このあたりの凄さ 
 
 
安土桃屋時代には描けなかったろう、令和の時代の絵面がここには確実に存在している 
 なんともまぁな美しさ 人がいますよ
 
お約束の底面であります