村山光生さんの窯は西洋式の焼窯。ヨーロッパのガラスの窯を参考にたったの24時間で焼成されるという、謂わば画期的な薪窯を自ら考案し築窯されている。この発想も僕から見るとカーボンオフセットに直結する。普通、立派な登り窯などになってくると三日三晩とかというような声をよく耳にするのだ、三日三晩ともなると使う木の量も、求める温度に応じて多くなる。それをたったの一日、少ない燃焼と短い時間でいながら、高い燃焼温度を継続されるという、薪窯に時代が求める要素がそこにいくつもあることになる。そしてそもそも燃やしている燃料も廃木材ということがある。カーボンオフセットの視点で注目すべきところがいくつもあるように思うのだ。
一昨日に横濱に荷物が到着して、ワクワクしながらの開梱作業を一人でしている。当然のことながら、産地、村山さんの陶房で見た感覚とはまた違う目でいる自分がいる。焼き物屋の主人の目、200個ほどの作品はひとつもどうもなっていなかった。まずそれが何よりである。
ひとつひとつを開けてみている、思ったのはやはり「薪窯」は違うだった、全然違う。これはいくつものいろんな産地・作家さんたちを見てきて初めてわかること。力強い、とても、そう思う。何がそう感じさせるのだろうと、開けながら自問した、なんとなくとか感覚的にとか、良いようにいいたい、自分の飾ったことばを謂っているのか、、、何度も自分を問うた。
いや、違うな、強さが違うな、釉薬が違うな、光とか、色と、生地の色と、それが焼けて焼け色がでる接点が表面に出ている、それがガラス質になって、それもなんか分厚いのだ、輝く都市=ル・コルビュジェ が如く、石川町の小さな陶器店に舞い降りてきたのだから、なんともだ。光り輝いている。
この青磁という色の複雑かつ執拗な美しさなのだが、たくさんの塊が来て、初めて感じるものであった。一個一個見ていて、丁寧にテーブルの上に置いてみてそう思う自分がいる。あらためて「青磁」だな、美しい。たくさんが揃うと初めてそのウィービングされたストーリーがわかるのだ。
綾部にお邪魔した時に、時を同じくして、村山さんが灰をいただいているという、お客さんが、灰をもって来られていた。その時はその話、持ってこられている事実だけが記憶のメモリーに入っていたが、、、今、それを想い反すと、この光がそれだ、それの光がここにある。ということに至った、全てにおいて無駄が無い、薪、窯、土は窯の周辺裏手で採れるもの、そして釉薬の灰だ。
話はそれるが、8年前に訪れていた、鳥取民藝の牛ノ戸焼の小林さんが、灰と釉薬の関係の話をしながら釉薬を作っている現場を見せていただいた、そして灰と釉薬の話を長くしていただいた。それも、その話もその当時はまだ周辺の話を支える知識は自分にはなくて、それだけがメモリーされていた、でも確実にメモリーしていた、とても大事な話なのだと小林さんも言っていた。それが、白雲窯でつながったのだった。
(今回はここまで、薪窯の話は続きます)