私たちの陶泉窯のコレクションはずっと継続中です、店頭でもオンラインでも。圧倒する芸術的歴史背景の作品をどうぞご堪能くださいね。
STAY SAFE SOCIAL DISTANCE 2021 MWL TEA ARTS STORE
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どうもわたくし「あかり」好きなようで、まずは蛍のようなつたないひかりに惹かれます。そして月ですよね、こうこうとしたのではなく満月に少し欠けるぐらいのような、まだこれからってところがいいなとか。そして部屋に吊るす揺らいでるガラスのランプですね。ランプなのにずっと見てられるのですなんかね、草ちゃんのランプの「あかり」が好きなのもきっとそんな延長線上にあるのでしょう、きっとね。
蛍
蛍前線が北上しています日本全国で、7月下旬まで続きます。
蛍に会いに行きましょう。(今は身近な処に居てくれればですけどね)
春はあけぼの。
やうやう白くなりゆく山ぎは、
少しあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
夏は夜。
月のころはさらなり。
やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる。
また、ただ一つ二つなど、
ほのかにうち光りて行くもをかし。
雨など降るもをかし。
清少納言(996-1025)は平安時代中期の日本の歌人、が著した「枕草子」
春はあけぼの、、、で始まる、夏のくだりが「蛍」
千年の昔から日本人の日常の感受性のそばにいた蛍
季節の美しさの象徴の「夏」を清少納言が歌いました。
蛍はとても繊細な昆虫です。源氏ボタルに平家ボタル。
水、土、植物、それらが美しい環境でなければ生きてはいけないのです。
幼虫の頃は川や田んぼの貝を餌とします。日本にだけしか生息しない源氏ボタルの幼虫はカワニナという貝だけを食べて育ちます。その貝が生きている環境がなければならない。そして成虫になる前には土に入りさなぎになる、その土も汚染されていてはだめなのです。つまり、蛍が育つ環境は幾つもの段階で田んぼや河川、土壌が汚染されていない証とも言えて、健全な環境のバロメータになります。
お茶などが生育する環境周辺で見られるのはその環境が健全である証拠なのです。
三重県度会郡大紀町の祝詞川(のりとがわ)周辺では例年なら6月にはホタルまつりが行われています。が、今年も情報はありません、難しいことだとは思います。時期が来てまた行われること期待しています。
度会(わたらい)のお茶がある環境はそういうあたりまえでなんでもない日常が、いにしえの昔からあります。
お茶が美味しいはずなのです。
闇の途中で、やっと気づいた、すぐに消えそうで、悲しいほどささやかな光。
毎日がうまいぜよ。
手に花を、唇には詩(うた)を。それがMWL SPILIT。
リセンヌ通り。MWL STORE
ほぼ文献です、横浜だけでなく多岐にわたります、データなどもしっかり揃っていて、横浜の事実が見れます。お茶の輸出から横浜の居留地とかハイカラさんの発展があったことがわかります。お茶と横浜は全国的にも重要な関係の土地場所であった。それが何故に今まで全くと言っていいぐらい残っていないのか、それもこれを読み込んでいくと理解できますね。よくこの本を出版していただきました。比較的まだ新しいというところがいいですね。とにかく古いものが多いですからこの関係は、これは違いますね。僕は必ず数字のデータを見て判断しますなんでも、まずそれですから。情緒的な表紙ではありますが中身はハードで面白い。大谷嘉兵衛さんをずっと追いかけていて、出会いました。著者は静岡の人、さすがです。いずれにせよ横浜のハイカラな発展は横浜港から出たお茶とその周辺で生産したお茶がとても重要な役割を果たしていました。
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ホンダ e を街中で見かけるようになりました。神奈川県でも、先日も湘南T -SITEに行った時に、駐車場に止まっている姿がありました。やはりかわいさが目を引きました。いいなぁってね。まあ、湘南T-SITEは松下の住宅を中心としたEテクニカルタウンですからね、パナホームってやつですソーラーな。自治体も参加した。だから街に似合うし、意識高い方々も住んでおられて、世の中では早い部類でしょうね。この写真もトップギアだからホンダ好きの多いイギリスの風景なのでしょうかね。バイクはモトコンポっていうの、車に積めるということで開発されてハンドルなどもボデイに沿って折りたためるのですよ。かわいい。そしてシティ・ターボですね。これが出た時もeみたいに衝撃的でした。トップギアうまい撮り方してますね、ヘルメットのデザインとか色もかわいいし、短パンなのがいい。
昨日から今日、トヨタは水素エンジンのカローラで24時間耐久レースを完走しました。しかもドライバーの一人は章男社長。必ず重要な局面においては前面にたち自ら語り組織を引っ張る、この時代に稀有な方です。本当に素晴らしいです。ずっとその姿勢を貫く章男社長です。
ハイブリッド技術では世界の頂点にあり、電気もこれからたくさんの導入がレクサス販路で始まり、水素カーは水素カーで開発するという。世界1位の自動車メーカーは大変です。水素カーは2050年時点でゼロエミッション動力エネルギーの多様性全体の18%を賄うという前提に立っての開発です。いいですね。
日本のお茶産業の振興に情熱を捧げた大谷嘉兵衛さん(以後敬称略)1845年生まれ、ほぼ幕末に青春を過ごしています。そして文明開花を肌で感じていたはずです。嘉兵衛は伊勢の国飯高郡に生まれ、19歳の時に親戚筋である、横浜北仲通り(今のあの立派な市役所、あのタワマンの前)にあった伊勢屋小倉藤兵衛方に奉公に出る。奉公と言われるぐらいだから親戚筋とはいえ大変であったのだろう。嘉兵衛は関西屈指のお茶の生産地だった伊勢茶の製茶貿易に就きます。そしてその働きぶりが気に入られて養子とはなるが、養父との仲がうまくいかず、それまでの茶貿易の経験を生かしてスミス・ベーカー商会という会社に転出し、そこから稀有な商才を発揮することになります。大量の宇治・大和茶を買い付けた、実に23歳、大勝負をしました。そして名をあげます。それを横浜港から輸出した。その後、当時はあまりにも日本の茶が売れて、需要が逼迫し、いろんな品質の問題が浮上し、この時も嘉兵衛は率先して中央茶業本部を設立して輸出製茶の品質向上に努めています。この間、横浜市会議員、市会議長、全国中央会議所の議長おも努めていました。当時の日本は絹に次いでお茶は重要な輸出品目でした。そのほとんどを横浜の港から輸出していました。その産業の推進に重要な役割を伊勢の国出身の嘉兵衛が果たしていたわけです。実はそういう縁から西区の伊勢山皇大神宮には銅像、その後にも石碑があったらしいのですが、今はなくなっているようです。(諸説あり)
ここで申し上げたかったのは、横浜港近くにあったという「お茶場」当時は全国から横浜港に集まる乾燥不十分なお茶を乾燥させて製茶する施設のこと、山下町一帯にあったと言います。そしてそれらの品質向上の振興を行なったのが伊勢の国生まれの大谷嘉兵衛であったという歴史的な事実です。日本の茶の輸出と産業の発展の礎になった横浜港なのであります。
このお茶のパッケージのイラストの背景は、船の安航を祈る旗、そして港を横切るベイブリッジ、大海を望んでいる風景。最も横浜らしい、横浜開港のポイントです。
資料参考:「日本茶の近代史、幕末開港から明治後期まで」蒼天出版社編、他。
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